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2011.06.01   光明真言  (2011. 4.24 チェ・トンミンさんのお話)

ヨーガ実習の前に師のチェ・トンミンさんが、「光明真言」の解釈をしてくださいました。強く心に残ったので、まとめてみたいと思います。
この度の震災と津波の甚大な被害の様子を見て皆さんは何を思いましたか。
私は、物も人も区別なく流されていく映像を見て、人も物も『もの』なのだということを、つくづく感じましたねぇ。「もの」は「物」でもあるし「者」でもあり、それは「ものものしいもの」ですが、どちらも区別無く一緒に流され一緒に燃えてしまうものなのです。あっという間に多くの方の命が失われましたが、死んでしまった者から見れば、生きているということは何ものにも代え難いすごいことでしょう。きっと「そんな不平不満不足顔をするなよ。お前たちは生きているんだぞ。生き生きしろよ!」と言いたいでしょう。
では、人間というもの(者)はどのようなものなのでしょう。ここで、先日質問をいただいた「光明真言」についてお話しして考えてみたいと思います。日本語ではサンスクリット語を音写訳し、「オン アボキャ ベイロシャノウ マカボダラ マニ ハンドマ ジンバラ ハラバリタヤ ウン」と唱えられています。簡単に意味を説明します。
オンは「オーム」という聖音です。アボキャというのはサンスクリット語のamoghaの音写で、満ち満ちた不空なるものとう意味。ベイロシャノウはVairocana「ヴァイローチャナ」の音写で毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)のこと。一般的には盧遮那仏と言われ、東大寺の瑠遮那仏が有名ですね。瑠遮那仏は大日如来とも言われている仏さまです。(※史実の人物としてのゴータマ・シッダールタを超えた宇宙仏(法身仏)。宇宙の真理をすべての人に照らし、悟りに導く仏。・・・ウィキペディア日本語版による)
マカボダラはmaha-mudraの音写でマハは「マッハ」と、超音速の単位として使われていますね。素晴らしく偉大なという意味。ボダラはムドラの音写で「印(イン)」、「しるし」のこと。だから、マカボダラとは偉大なしるし、モデル、代表ということです。
マニハンドマはmani padmaの音写で、マニは珠、丸く一体となった輝かしい宝珠。ハンドマはパドマ、蓮華のこと。蓮華の花です。
ジンバラはjvalaの音写で光明という意味。ハラバリタヤはpravartayaの音写で放ちなさいという意味 ウンは聖音hum(フーム)。
まとめると、「オーム、満ち満ちた不空なる者、 宇宙の真理たる大日如来よ。私はその偉大なる印(モデル・代表)なのだ。尊い宝珠であり清らかで美しい蓮華の花なのだ。その光明を放ちたまえ」となります。ですから、この光明真言は一人ひとりの人間に、他でもない自分が不空なる存在であり宇宙の真理である大日如来の印であり、尊い珠であり、美しい蓮華の花なのだよ。王の玉座に座す光輝く存在なのだよ、それが己の真なる姿なのだよと教えているのです。また、一人ひとりがそうであるように、この世もまた完全で美しい一つの珠。そのようなこの世に生かされているその奇跡に気づき感謝し、その喜びを存分に放出しなさい。今ここにいる自分こそが、この世こそが光輝く存在であるという自覚を呼び覚ます言葉なのです。
〔感想〕
私は、光明真言の解釈をお聞きし、心の底から喜びがわきあがってきました。「私は偉大なる印、宝の珠、清らかな蓮華(maha-mudra mani padma)」と思うだけでうれしくなり力がわいてきます。この存在は偉大なるもの。しかしいつ何時どんな災難に遭って形は失せるかわからない。失せる時が必ずやってくるはかない命だからこそ今ここにこうして生きているということはすごいことなのだ。そのことを自覚し、広やかな心で明るく生き生きと私なりの光明を放って生きていきたいと思いました。
(※ 光明真言についてインターネットでちょっと調べてみましたが、どれも「偉大な御方、大日如来様どうか貴方様の光明を放ちて、私にご利益をお授けください」といった、自分を小さくあわれな者とした解釈でした。チェ・トンミンさんの「自分こそが大日如来の印、大日如来そのものなのだ」という大胆豪放な解釈はなんと私を力づけてくれることでしょう。)

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2010.12.17   現代病の原因は動物性蛋白の摂りすぎ

  昨日(11.3)は、東京の九段会館で行われた「日本綜合医学会、第65回東京大講演会」に行ってきた。テーマは「日本の危機を救うのは誰か?―命の農・食・医・教育で日本再生 !! ― 」だった。講師は日本伝承医学協会会長 島田修氏、完全無農薬・無肥料・無除草剤によるりんご栽培の成功者 木村秋則氏、自然流子育ての提唱者 真弓定夫氏、国家基本問題研究所理事長 櫻井よしこ氏。パネラーには学校給食の改善で非行をゼロにした元上田市教育長 大塚貢氏、日本綜合医学会理事長の玄米酵素社長 岩崎輝明氏も加わった。  午前10:30から午後6:00まで、各界でご活躍の講師のお話を興味深く聞き、大きな刺激を受けた。
  真弓定夫氏は次のように言っていた。終戦前、わが国には癌で亡くなる人はほとんど無かったが、1950年代から癌による死亡者が増え始め、1990年以降、日本人の死因の筆頭になり、しかも年とともに二位との差を広げている。その大きな要因として、1945年を境として、伝統食文化である和食が欧米食に変わってしまったことが挙げられる。
 アメリカ占領軍は、1945年から7年間にわたって、「たんぱく質が足りないよ、大きいことはいいことだ」をうたい文句にして、わが国の保健施設・学校等を使い、日本人には適さない動物性タンパク質を過剰に摂取するように指導した。このことが、それまで日本にはほとんど見られなかった癌の増加をもたらしていることにいまだに多くの日本人が気づいていない。
 アメリカでは癌患者が増えたことを憂え、1974年から1977年にかけて、当時の副大統領マクバガン氏を中心に政府は膨大な栄養調査を行った。「マクバガン報告」といわれるその報告は「動物性タンパク質の摂り過ぎ、いわゆる美食がさまざまな病気を生み出し、特に癌をふやすことを指摘した。これを踏まえて、わが国でも1981年、今村光一は「タンパク質が多ければがん細胞は増殖しやすい」と警告した。しかし、こうした貴重な報告にアメリカ国民も日本国民もあまり関心を示さなかった。
 アメリカの高名な栄養学者コリン・キャンベルは1983年から1990年にかけて、中国人には癌患者が少ないことから、アメリカ人と中国人の癌の比較調査(チャイナプロジェクト)を実施した。その結果、中国人に癌患者が少ない原因は、動物性タンパク質、とりわけ牛乳の摂取量がはるかに少ないことを挙げ、癌の最大の原因は牛乳のタンパク質であるカゼインの過剰摂取であると結論付けている。
 そして、興味深いのは、マクバガン報告もチャイナプロジェクトも、古今東西、人にとって最も好ましい食事は日本食であるとしていることだ。もちろん今の日本食ではなく、500年前(元禄時代)の食事が理想的であるとしている。当時は食の基本である三原則、1)自分の住んでいる土地の食べ物を摂る。2)旬のものを食べる。3)生き物をたべる。がしっかりと励行されていたから、健康を保つ上で好ましかったのは当然のことだ。
 現状を見ると、日本からはるかに離れた土地のものを食べ、季節に関係なく栄養価の乏しい野菜を食べ、瓶詰め、缶詰、パック詰めの防腐剤を始めいろいろな食品添加物が使われた腐らない食品を食べている。消費者保護の立場で闘う活動家ケヴィン・トルドーは「株式を公開している企業によって製造販売されているメーカー品は食べない」と言っている。今の子どもたちは、そうしたメーカーが作っている食べ物を口にすることで、年間1500種類もの添加物を身体に入れている。
 敗戦の昭和20年を境にして、なぜ今のような事態が生じてきたのか。それは、日本民族の優秀さを熟知していたアメリカ占領軍が、その高度な文化や人間を劣化させるために、日本の伝統食文化を壊すことをたくらんだのだ。また、アメリカの余剰小麦の市場にするために、牛肉の消費地とするために、公的機関を使って、パン・牛乳・肉の洋食を広めたとも言われている。以来、行政や大企業の国民の健康よりも営利を優先したアメリカ食がはびこった。日本国民の間に癌・糖尿病・心筋梗塞・高血圧・腎臓病などのいわゆる生活習慣病が多発するようになったのは、日本人に合わない西洋食による食習慣の乱れによるということは明白な事実だ。このままでいくと、国民医療費の高騰を招くばかりでなく、子どもたちの早死には必定。ことは急を要する。日本食の大切さをしっかり伝え、日本人にあった食習慣を取り戻そう。

 一切薬を使わずに病気を治されている真弓先生は、「日本人に適した穀物(玄米・豆類・ゴマ・雑穀)菜食を!」「日本食の小食を!」「医食同源!」と切々と訴えていた。私も幸いにして、1年3か月前に玄米酵素に出会ったお陰で、日本綜合医学会の理事長でもあられる(株)玄米酵素の社長岩崎輝明氏の提唱する食事道を学ぶことができた。その内容は学校で習った栄養学とは大きく異なり、目からうろこのことばかりだった。しかしその内容は真実だと思った。以来、肉・乳製品・油は断ち玄米菜食に切り替え、砂糖も極力控え、玄米酵素を頂きながら1年が過ぎた。お通じが非常によくなり、体が軽くなり、頭に幕がかかったような不快な感じもなくなりすっきりしてきた。
 そして今、健康の源は食べる物にあると痛感している。多くの方々に、安易に薬や医者を頼るのではなく、正しい知識を得て、食習慣をはじめとする自分生活習慣を省み、改善するすることにより、真の健康を手に入れて欲しいと願っている。
※ 皆さんに読んで欲しい本・・・コリン・キャンベル著 『葬られた第二のマクバガン報告』上巻
                    ジェイン・プラント著 『乳がんと牛乳』

 

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2010.08.02   ドキュメンタリー映画 『花と兵隊』 を観て

2010. 7.30(金)
  『花と兵隊』を観てから1週間が過ぎた。
「未帰還兵」と呼ばれる人が居ることを始めて知った。戦後も日本に帰らずビルマの地に生きてきた坂井勇、中野弥一郎、藤田松吉各氏の生活の様子や言葉に大きな衝撃を受けた。重いものが心に残り、ずっとそのことに関して考えたりボーッとしたりして過ごした。
 パンフレットの歴史解説には次のように書かれていた。
・・・1944年3月、「インパール作戦」が発動された。作戦に参加した第15軍3ヶ師団は、順調にインパール付近まで進出したものの、圧倒的航空兵力を持つ英軍の前に作戦は頓挫し、たちまち食糧、弾薬の不足に陥った。戦線は崩壊し、同年7月、ついに作戦中止が命ぜられた。退却もまた悲劇であった。雨期の豪雨の中、ビルマの山中は険しく、完全に補給を断たれ食糧も得ることができない。おびただしい数の餓死者を出し、その退路は力尽きた日本兵の死体が延々と続く「白骨街道」と呼ばれた。「インパール作戦」を含む、ビルマ戦線では、約33万の日本の将兵が送られ、そのうち約19万人が亡くなった。・・・

自動車修理などの技術を生かし、土地の人々を援助してきた坂井氏はもう90歳近くになり、足腰が弱り、椅子にねそべったりお茶を飲んだりしながら、家族をはじめ多くの人に慕われ囲まれていた。衛生兵の技能を生かし医療活動を通して働いてこられた中野氏は背筋を伸ばし、軍を脱退した訳を「言えない事がある」と、苦しげな緊張した面持ちで語っていた。土木工事や果樹園経営などを営んできた藤田氏は片方の足を負傷したため、歩くことができず、腰を浮かすような格好でいざって室内を移動していた。怒ったような口調で「シンガポールあたりで、支那人の子どもや女を何人も殺した。命令されたから殺した。それをやらなかったら自分の命が危ないからやった」と言っていた。何回も吐き出すように言っていた。
3人とも土地の女性と結婚し、それぞれの生活を営み現在に至っている。(残念ながら、坂井氏も藤田氏も映画が完成する前に亡くなった)。そして、戦争の記憶を蘇らせ語るときの表情は一様にこわばりつらそうだ。それを見て私は、言葉にし尽くせない壮絶な体験があったのだろうと思うばかりだ。有無を言わせず命を奪う権力の恐ろしさを思うと、やり場のない強い怒りが湧き上がってくる。
1970年代、今村昌平監督が「未帰還兵を追って」というドキュメンタリーを撮っている。氏は「1銭5厘のハガキ1枚で徴兵され、死地に追われ、敗戦と同時に放置されて後、今日に至るまで一顧をもえられない彼らに、少なくともわれわれ日本人はできるだけ早く接触し、彼らの意見と希望とを訊いてみるべきではないだろうか」と言っている。
満州、ボルネオと戦地を渡り歩き、背中に銃弾がかすった痕があった父は昨年87歳で死んだ。戦死した叔父もいる。未亡人になり苦労してきた女性もいる。戦争中のひもじかった経験を母や叔母からも聞かされている。思えば昭和24年生まれの私の周囲には戦争の傷を抱えて生きてきた人が何人もいた。しかし昭和から平成にかけての社会の急激な変化と共に、戦争の記憶もあたかもはるか昔の出来事のように忘れ去られようとしている。
「花と兵隊」を観て、愚かしくも悲惨なできごとを「知らない」では済まされないと思った。還暦を迎えた私たちがもっと知り、語り伝えなければいけない。そして二度と戦争など起こしてはいけない。
何度もビルマやタイに足を運び、忍耐強くインタビューをし、撮影し、編集し、貴重なドキュメンタリー映画として世に出してくれた松林要樹氏の熱意と努力と苦労に対して深く敬意を表すると共に心から感謝したい。是非とも「花と兵隊」の自主上映会を実施し多くの方に見ていただきたいと思う。

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2010.07.22  石垣島の旅日記

6月13日(日) 1日目
今は石垣島のホテル。高等部の生徒2人との石垣島への旅が、娘(二女)や夫の協力も得て実現したのだ。
沖縄が好きで来ている回数が最も多い娘はアドバイスをしてくれると共に、今回の旅のしおりも作ってくれた。夫は男同士という感じで、2人の若者に色々話しかけたり質問に答えたりしていた。
朝7:34に宇都宮を発ち、11:35のフライト。14:10那覇着、14:35那覇発、15:35石垣着。レンタカーを借り、ホテルにチェックインの後、バンナ岳山麓「エメラルドの海が見える展望台」へ。そして、石垣市内の居酒屋で夕食。
空の上は快晴。青空と白い雲の織り成す芸術の中を通り抜けてきた。石垣はうす曇状態で、残念ながらエメラルドの海は望めなかったが、さすが南国、むっとする熱気を感じた。バンナ岳山麓はにぎやかな蝉声に包まれ、石垣市街地や港、鬱蒼と茂る密林が眺められた。
夕食は、鮪の目玉の煮付け、豚足、海ぶどう、魚のマース煮、イカ墨ソーメン、県魚グルクンのチャーハン等々、沖縄ならではの食材に舌鼓を打った。
H君は、「飛行機に乗るのは初めてなので不安だったけど、落ち着いてここまで来られてよかった。羽田の展望台で着陸する飛行機を何機も見て、飛行機ってかっこいいなと思った」と、Y君は「石垣島に着いたとたんすごく熱さを感じ、南に来たことを実感した。飛行機は2回目だけど、ジェットエンジンの迫力に驚いた。蝉の鳴き声にも沖縄料理の新鮮さや美味しさにも驚いた」と語っていた。
6月14日(月) 2日目 
娘の家から約5分。明るい光が降り注ぐ米原ビーチでシュノーケリングを楽しんだ。砂浜から5?6メートルも行くとさんご礁。顔を海につけると、そこはもう南の海の魚たちの楽園だ。おしゃれな魚たちが無心に泳いでいる。身も心も解き放たれ、今地球のここに魚たちと共に生きているえもいわれぬ喜びに包まれ、魚たちと共に泳いだ。
2人の生徒も「すごい!」「きれい!」「手をだすと、指先をツンツンとつつく」とはしゃぎ、大自然の懐に抱かれ、自分を放ち切っていた。
昼食は、ソーキそば、海鮮丼、車えびの天丼などの海の幸をそれぞれに頂き、午後は工房「凛火」でシーサー作り。粘土をちぎったり丸めたり・・・、Y君もH君もしばし自分の世界。・・・しばらくすると、それぞれに個性溢れるユニークなシーサーが生まれ出た。
その後、長女の家でパイン、パッションフルーツ、スイカなどを頂き、夕食の材料の買出しに。5時頃、今日の宿「ふくろうハウス」に到着。エプロンを着け早速料理に取り掛かる。ゴーヤーチャンプル、ヘチマと肉の炒め物、グルクン(沖縄県魚)の焼き魚、焼きそばなど。料理は初めてというY君もH君も娘たちの指示に従い大活躍。古代米入りご飯もふっくらと炊け、ソーキスープや特産のかまぼこなどの差し入れもあり、石垣の食材尽くしの贅沢な夕食となった。
片づけをしてシャワーを浴び、ミーティングをして、充実した長い一日が終わろうとしている。
6月15日(火) 3日目 
今日は海神祭。力を合わせてカヌーを漕ぐ日焼けした青年のたくましい姿に、見ている私も興奮し心が躍った。海の恵みを受け、海と共に生活している土地ならではの催し物を間近に見ることができ、ラッキーだった。
午後は高速船で竹富島へ。水牛車に揺られ珊瑚の石垣の間の道を行く。左右にはシーサーが座る赤瓦の屋根の家。バナナ、パパイヤ、ドラゴンフルーツの木。そして真紅に燃えるハイビスカス・・・。ピンクのブーゲンビリアも梢高くそよいでいる。竹富の女性は美しく、その昔役人の現地妻として求められた女性がそれを拒んだという話を聞いた。波洗うこの小さな島にも悲喜こもごも人の歴史があったのだと、三線の音と島の哀歌に耳を傾けながらしばし感慨にふけった。黒糖ミルクのかき氷を食べ、郵便局ではがきを書いて、なごみの塔から島を見渡し、5:00過ぎに石垣島に戻り、今日の宿、内藤家へ。
縁あって、長女が石垣島の内藤家に嫁いで3年になる。お父さんや息子や友達みんなで作った手作りの家の3階のベランダでバーベキュー。晴れていれば輝く夕焼けを堪能することができるのだが、今日はうす曇り。娘夫婦とその子ども、お父さんお母さんみんなで夕闇迫る川平湾を眺めながら食べ飲み話が弾む。Y君もH君も本当に楽しそう。・・・私は途中で失礼してお休みなさい。楽しい一日を感謝しながら。
6月16日(水) 4日目 
6:15起床。ラブラドール犬「ドラム」と共に朝の散歩。海を見晴るかす高台の道。Y君もH君も娘も私も「すごいなぁ」「きれいだなぁ」「ステキ!」「映画のシーンのような風景!」など、感動の言葉を漏らしながら歩く。ドラムは大喜びで、流れる水路に飛び込んだりしながら草地を跳ね回る。
Y君は、歩きながら昨夜の印象に残った話をしてくれた。「内藤さんのお父さんが若い頃、簡単な家を作って野宿をしていたとき、台風で家が吹き飛ばされた。お金もお札はみんな吹き飛んでしまった。ほふく前進で追いかけたが1枚もつかむことはできず、残ったのは、5円、10円、100円玉だけだったんですって。『今度、台風体験ツアーなんてどう?いつでもおいで』と言ってくれました。先生のだんなさんの蝶の話もすごいと思いました。日光でマーキングされた蝶が石垣島で捕獲されたんですってね。その蝶は羽を広げて15センチぐらいなのに、2000キロも飛ぶんですって。・・・」
散歩から戻り、3階のベランダで昨日の日記を書き、朝食をいただいて、荷物の整理をして空港へ。「お世話になりました」「楽しかったです」「ありがとう」「また来てね」「さようなら」・・・。
会う喜びがあれば、必ず別れの寂しさがある。生きていれば、そのようなつらさは何度となく味わわなければならない。「エイッ!」と振り切って前をむいて明日に向かっていくしかない。娘家族に別れ、空港で同行した娘と別れ、宇都宮の駅でY君とH君とも別れ、一大イベントの石垣島への旅は終了した。
2人の高校生にとって、本当に言葉に尽くせないほどの濃密な体験ができたすばらしい3泊4日だったと思う。全般にうす曇りだったが、シュノーケリングやハーリー祭には明るく晴れ、雨の日は一日もなかった。天候に恵まれ、無事に行ってこられたことを心から感謝したい。

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2009.10.11   伊藤若冲の絵

 昨日、東京国立博物館で行われている「皇室の名宝」御即位20年記念特別展に行って来た。9時20分頃会場に着いたが、もうすでに蛇行した列ができていた。
 9時半開場。目指すは若冲の絵。一部屋通り抜けると伊藤若冲の世界が待っていた。まず「旭日鳳凰図」。釘付けになった私の心は震え、なぜか悲しみに似た感情に襲われた。寸分の疑いも不安もなく、生きていることがうれしくてたまらないような至福の表情。美しいこと極まりない肢体。鳳凰は私の心の奥の神域まで直入し、私の中の神と繋がった。立ち尽くした私の目に涙がにじみ、「私」が消えた。
 しばらくして我に返り歩を進める。精悍な鶏たち、鳥や魚や虫などの小動物、芍薬・菊・ひまわり・朝顔・蓮などの花・・・どれもなんと生き生きしていることか。もう一つの鳳凰図は純白。神々しいこと限りない。私はその場を去りがたく、何度も行ったり来たりして絵からほとばしり出る命を体一杯に吸収した。
 若冲は植物、虫、魚、鳥 ・・・等々この世に生きて在る命の輝きと、それらを生み出す神の御業に心底感じ入って表現したのではないだろうか。その業と集中力はむろん神技。若冲の中の神が膨らんで描いたのだろう。
 若冲の絵を見て、この世は命の楽園、ワンダーランドなのだと実感する。そしてそこに今こうして生かされていることの有難さと不思議さを改めて感じる。まさに奇跡! 
 今もまだ至福感に酔いしれている。

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