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タオのブログ

2010.08.02   ドキュメンタリー映画 『花と兵隊』 を観て

2010. 7.30(金)
  『花と兵隊』を観てから1週間が過ぎた。
「未帰還兵」と呼ばれる人が居ることを始めて知った。戦後も日本に帰らずビルマの地に生きてきた坂井勇、中野弥一郎、藤田松吉各氏の生活の様子や言葉に大きな衝撃を受けた。重いものが心に残り、ずっとそのことに関して考えたりボーッとしたりして過ごした。
 パンフレットの歴史解説には次のように書かれていた。
・・・1944年3月、「インパール作戦」が発動された。作戦に参加した第15軍3ヶ師団は、順調にインパール付近まで進出したものの、圧倒的航空兵力を持つ英軍の前に作戦は頓挫し、たちまち食糧、弾薬の不足に陥った。戦線は崩壊し、同年7月、ついに作戦中止が命ぜられた。退却もまた悲劇であった。雨期の豪雨の中、ビルマの山中は険しく、完全に補給を断たれ食糧も得ることができない。おびただしい数の餓死者を出し、その退路は力尽きた日本兵の死体が延々と続く「白骨街道」と呼ばれた。「インパール作戦」を含む、ビルマ戦線では、約33万の日本の将兵が送られ、そのうち約19万人が亡くなった。・・・

自動車修理などの技術を生かし、土地の人々を援助してきた坂井氏はもう90歳近くになり、足腰が弱り、椅子にねそべったりお茶を飲んだりしながら、家族をはじめ多くの人に慕われ囲まれていた。衛生兵の技能を生かし医療活動を通して働いてこられた中野氏は背筋を伸ばし、軍を脱退した訳を「言えない事がある」と、苦しげな緊張した面持ちで語っていた。土木工事や果樹園経営などを営んできた藤田氏は片方の足を負傷したため、歩くことができず、腰を浮かすような格好でいざって室内を移動していた。怒ったような口調で「シンガポールあたりで、支那人の子どもや女を何人も殺した。命令されたから殺した。それをやらなかったら自分の命が危ないからやった」と言っていた。何回も吐き出すように言っていた。
3人とも土地の女性と結婚し、それぞれの生活を営み現在に至っている。(残念ながら、坂井氏も藤田氏も映画が完成する前に亡くなった)。そして、戦争の記憶を蘇らせ語るときの表情は一様にこわばりつらそうだ。それを見て私は、言葉にし尽くせない壮絶な体験があったのだろうと思うばかりだ。有無を言わせず命を奪う権力の恐ろしさを思うと、やり場のない強い怒りが湧き上がってくる。
1970年代、今村昌平監督が「未帰還兵を追って」というドキュメンタリーを撮っている。氏は「1銭5厘のハガキ1枚で徴兵され、死地に追われ、敗戦と同時に放置されて後、今日に至るまで一顧をもえられない彼らに、少なくともわれわれ日本人はできるだけ早く接触し、彼らの意見と希望とを訊いてみるべきではないだろうか」と言っている。
満州、ボルネオと戦地を渡り歩き、背中に銃弾がかすった痕があった父は昨年87歳で死んだ。戦死した叔父もいる。未亡人になり苦労してきた女性もいる。戦争中のひもじかった経験を母や叔母からも聞かされている。思えば昭和24年生まれの私の周囲には戦争の傷を抱えて生きてきた人が何人もいた。しかし昭和から平成にかけての社会の急激な変化と共に、戦争の記憶もあたかもはるか昔の出来事のように忘れ去られようとしている。
「花と兵隊」を観て、愚かしくも悲惨なできごとを「知らない」では済まされないと思った。還暦を迎えた私たちがもっと知り、語り伝えなければいけない。そして二度と戦争など起こしてはいけない。
何度もビルマやタイに足を運び、忍耐強くインタビューをし、撮影し、編集し、貴重なドキュメンタリー映画として世に出してくれた松林要樹氏の熱意と努力と苦労に対して深く敬意を表すると共に心から感謝したい。是非とも「花と兵隊」の自主上映会を実施し多くの方に見ていただきたいと思う。

投稿者 tao-kyo (17:25) | PermaLink