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タオのブログ

2011.06.01   光明真言  (2011. 4.24 チェ・トンミンさんのお話)

ヨーガ実習の前に師のチェ・トンミンさんが、「光明真言」の解釈をしてくださいました。強く心に残ったので、まとめてみたいと思います。
この度の震災と津波の甚大な被害の様子を見て皆さんは何を思いましたか。
私は、物も人も区別なく流されていく映像を見て、人も物も『もの』なのだということを、つくづく感じましたねぇ。「もの」は「物」でもあるし「者」でもあり、それは「ものものしいもの」ですが、どちらも区別無く一緒に流され一緒に燃えてしまうものなのです。あっという間に多くの方の命が失われましたが、死んでしまった者から見れば、生きているということは何ものにも代え難いすごいことでしょう。きっと「そんな不平不満不足顔をするなよ。お前たちは生きているんだぞ。生き生きしろよ!」と言いたいでしょう。
では、人間というもの(者)はどのようなものなのでしょう。ここで、先日質問をいただいた「光明真言」についてお話しして考えてみたいと思います。日本語ではサンスクリット語を音写訳し、「オン アボキャ ベイロシャノウ マカボダラ マニ ハンドマ ジンバラ ハラバリタヤ ウン」と唱えられています。簡単に意味を説明します。
オンは「オーム」という聖音です。アボキャというのはサンスクリット語のamoghaの音写で、満ち満ちた不空なるものとう意味。ベイロシャノウはVairocana「ヴァイローチャナ」の音写で毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)のこと。一般的には盧遮那仏と言われ、東大寺の瑠遮那仏が有名ですね。瑠遮那仏は大日如来とも言われている仏さまです。(※史実の人物としてのゴータマ・シッダールタを超えた宇宙仏(法身仏)。宇宙の真理をすべての人に照らし、悟りに導く仏。・・・ウィキペディア日本語版による)
マカボダラはmaha-mudraの音写でマハは「マッハ」と、超音速の単位として使われていますね。素晴らしく偉大なという意味。ボダラはムドラの音写で「印(イン)」、「しるし」のこと。だから、マカボダラとは偉大なしるし、モデル、代表ということです。
マニハンドマはmani padmaの音写で、マニは珠、丸く一体となった輝かしい宝珠。ハンドマはパドマ、蓮華のこと。蓮華の花です。
ジンバラはjvalaの音写で光明という意味。ハラバリタヤはpravartayaの音写で放ちなさいという意味 ウンは聖音hum(フーム)。
まとめると、「オーム、満ち満ちた不空なる者、 宇宙の真理たる大日如来よ。私はその偉大なる印(モデル・代表)なのだ。尊い宝珠であり清らかで美しい蓮華の花なのだ。その光明を放ちたまえ」となります。ですから、この光明真言は一人ひとりの人間に、他でもない自分が不空なる存在であり宇宙の真理である大日如来の印であり、尊い珠であり、美しい蓮華の花なのだよ。王の玉座に座す光輝く存在なのだよ、それが己の真なる姿なのだよと教えているのです。また、一人ひとりがそうであるように、この世もまた完全で美しい一つの珠。そのようなこの世に生かされているその奇跡に気づき感謝し、その喜びを存分に放出しなさい。今ここにいる自分こそが、この世こそが光輝く存在であるという自覚を呼び覚ます言葉なのです。
〔感想〕
私は、光明真言の解釈をお聞きし、心の底から喜びがわきあがってきました。「私は偉大なる印、宝の珠、清らかな蓮華(maha-mudra mani padma)」と思うだけでうれしくなり力がわいてきます。この存在は偉大なるもの。しかしいつ何時どんな災難に遭って形は失せるかわからない。失せる時が必ずやってくるはかない命だからこそ今ここにこうして生きているということはすごいことなのだ。そのことを自覚し、広やかな心で明るく生き生きと私なりの光明を放って生きていきたいと思いました。
(※ 光明真言についてインターネットでちょっと調べてみましたが、どれも「偉大な御方、大日如来様どうか貴方様の光明を放ちて、私にご利益をお授けください」といった、自分を小さくあわれな者とした解釈でした。チェ・トンミンさんの「自分こそが大日如来の印、大日如来そのものなのだ」という大胆豪放な解釈はなんと私を力づけてくれることでしょう。)

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2010.12.17   現代病の原因は動物性蛋白の摂りすぎ

  昨日(11.3)は、東京の九段会館で行われた「日本綜合医学会、第65回東京大講演会」に行ってきた。テーマは「日本の危機を救うのは誰か?―命の農・食・医・教育で日本再生 !! ― 」だった。講師は日本伝承医学協会会長 島田修氏、完全無農薬・無肥料・無除草剤によるりんご栽培の成功者 木村秋則氏、自然流子育ての提唱者 真弓定夫氏、国家基本問題研究所理事長 櫻井よしこ氏。パネラーには学校給食の改善で非行をゼロにした元上田市教育長 大塚貢氏、日本綜合医学会理事長の玄米酵素社長 岩崎輝明氏も加わった。  午前10:30から午後6:00まで、各界でご活躍の講師のお話を興味深く聞き、大きな刺激を受けた。
  真弓定夫氏は次のように言っていた。終戦前、わが国には癌で亡くなる人はほとんど無かったが、1950年代から癌による死亡者が増え始め、1990年以降、日本人の死因の筆頭になり、しかも年とともに二位との差を広げている。その大きな要因として、1945年を境として、伝統食文化である和食が欧米食に変わってしまったことが挙げられる。
 アメリカ占領軍は、1945年から7年間にわたって、「たんぱく質が足りないよ、大きいことはいいことだ」をうたい文句にして、わが国の保健施設・学校等を使い、日本人には適さない動物性タンパク質を過剰に摂取するように指導した。このことが、それまで日本にはほとんど見られなかった癌の増加をもたらしていることにいまだに多くの日本人が気づいていない。
 アメリカでは癌患者が増えたことを憂え、1974年から1977年にかけて、当時の副大統領マクバガン氏を中心に政府は膨大な栄養調査を行った。「マクバガン報告」といわれるその報告は「動物性タンパク質の摂り過ぎ、いわゆる美食がさまざまな病気を生み出し、特に癌をふやすことを指摘した。これを踏まえて、わが国でも1981年、今村光一は「タンパク質が多ければがん細胞は増殖しやすい」と警告した。しかし、こうした貴重な報告にアメリカ国民も日本国民もあまり関心を示さなかった。
 アメリカの高名な栄養学者コリン・キャンベルは1983年から1990年にかけて、中国人には癌患者が少ないことから、アメリカ人と中国人の癌の比較調査(チャイナプロジェクト)を実施した。その結果、中国人に癌患者が少ない原因は、動物性タンパク質、とりわけ牛乳の摂取量がはるかに少ないことを挙げ、癌の最大の原因は牛乳のタンパク質であるカゼインの過剰摂取であると結論付けている。
 そして、興味深いのは、マクバガン報告もチャイナプロジェクトも、古今東西、人にとって最も好ましい食事は日本食であるとしていることだ。もちろん今の日本食ではなく、500年前(元禄時代)の食事が理想的であるとしている。当時は食の基本である三原則、1)自分の住んでいる土地の食べ物を摂る。2)旬のものを食べる。3)生き物をたべる。がしっかりと励行されていたから、健康を保つ上で好ましかったのは当然のことだ。
 現状を見ると、日本からはるかに離れた土地のものを食べ、季節に関係なく栄養価の乏しい野菜を食べ、瓶詰め、缶詰、パック詰めの防腐剤を始めいろいろな食品添加物が使われた腐らない食品を食べている。消費者保護の立場で闘う活動家ケヴィン・トルドーは「株式を公開している企業によって製造販売されているメーカー品は食べない」と言っている。今の子どもたちは、そうしたメーカーが作っている食べ物を口にすることで、年間1500種類もの添加物を身体に入れている。
 敗戦の昭和20年を境にして、なぜ今のような事態が生じてきたのか。それは、日本民族の優秀さを熟知していたアメリカ占領軍が、その高度な文化や人間を劣化させるために、日本の伝統食文化を壊すことをたくらんだのだ。また、アメリカの余剰小麦の市場にするために、牛肉の消費地とするために、公的機関を使って、パン・牛乳・肉の洋食を広めたとも言われている。以来、行政や大企業の国民の健康よりも営利を優先したアメリカ食がはびこった。日本国民の間に癌・糖尿病・心筋梗塞・高血圧・腎臓病などのいわゆる生活習慣病が多発するようになったのは、日本人に合わない西洋食による食習慣の乱れによるということは明白な事実だ。このままでいくと、国民医療費の高騰を招くばかりでなく、子どもたちの早死には必定。ことは急を要する。日本食の大切さをしっかり伝え、日本人にあった食習慣を取り戻そう。

 一切薬を使わずに病気を治されている真弓先生は、「日本人に適した穀物(玄米・豆類・ゴマ・雑穀)菜食を!」「日本食の小食を!」「医食同源!」と切々と訴えていた。私も幸いにして、1年3か月前に玄米酵素に出会ったお陰で、日本綜合医学会の理事長でもあられる(株)玄米酵素の社長岩崎輝明氏の提唱する食事道を学ぶことができた。その内容は学校で習った栄養学とは大きく異なり、目からうろこのことばかりだった。しかしその内容は真実だと思った。以来、肉・乳製品・油は断ち玄米菜食に切り替え、砂糖も極力控え、玄米酵素を頂きながら1年が過ぎた。お通じが非常によくなり、体が軽くなり、頭に幕がかかったような不快な感じもなくなりすっきりしてきた。
 そして今、健康の源は食べる物にあると痛感している。多くの方々に、安易に薬や医者を頼るのではなく、正しい知識を得て、食習慣をはじめとする自分生活習慣を省み、改善するすることにより、真の健康を手に入れて欲しいと願っている。
※ 皆さんに読んで欲しい本・・・コリン・キャンベル著 『葬られた第二のマクバガン報告』上巻
                    ジェイン・プラント著 『乳がんと牛乳』

 

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2010.08.02   ドキュメンタリー映画 『花と兵隊』 を観て

2010. 7.30(金)
  『花と兵隊』を観てから1週間が過ぎた。
「未帰還兵」と呼ばれる人が居ることを始めて知った。戦後も日本に帰らずビルマの地に生きてきた坂井勇、中野弥一郎、藤田松吉各氏の生活の様子や言葉に大きな衝撃を受けた。重いものが心に残り、ずっとそのことに関して考えたりボーッとしたりして過ごした。
 パンフレットの歴史解説には次のように書かれていた。
・・・1944年3月、「インパール作戦」が発動された。作戦に参加した第15軍3ヶ師団は、順調にインパール付近まで進出したものの、圧倒的航空兵力を持つ英軍の前に作戦は頓挫し、たちまち食糧、弾薬の不足に陥った。戦線は崩壊し、同年7月、ついに作戦中止が命ぜられた。退却もまた悲劇であった。雨期の豪雨の中、ビルマの山中は険しく、完全に補給を断たれ食糧も得ることができない。おびただしい数の餓死者を出し、その退路は力尽きた日本兵の死体が延々と続く「白骨街道」と呼ばれた。「インパール作戦」を含む、ビルマ戦線では、約33万の日本の将兵が送られ、そのうち約19万人が亡くなった。・・・

自動車修理などの技術を生かし、土地の人々を援助してきた坂井氏はもう90歳近くになり、足腰が弱り、椅子にねそべったりお茶を飲んだりしながら、家族をはじめ多くの人に慕われ囲まれていた。衛生兵の技能を生かし医療活動を通して働いてこられた中野氏は背筋を伸ばし、軍を脱退した訳を「言えない事がある」と、苦しげな緊張した面持ちで語っていた。土木工事や果樹園経営などを営んできた藤田氏は片方の足を負傷したため、歩くことができず、腰を浮かすような格好でいざって室内を移動していた。怒ったような口調で「シンガポールあたりで、支那人の子どもや女を何人も殺した。命令されたから殺した。それをやらなかったら自分の命が危ないからやった」と言っていた。何回も吐き出すように言っていた。
3人とも土地の女性と結婚し、それぞれの生活を営み現在に至っている。(残念ながら、坂井氏も藤田氏も映画が完成する前に亡くなった)。そして、戦争の記憶を蘇らせ語るときの表情は一様にこわばりつらそうだ。それを見て私は、言葉にし尽くせない壮絶な体験があったのだろうと思うばかりだ。有無を言わせず命を奪う権力の恐ろしさを思うと、やり場のない強い怒りが湧き上がってくる。
1970年代、今村昌平監督が「未帰還兵を追って」というドキュメンタリーを撮っている。氏は「1銭5厘のハガキ1枚で徴兵され、死地に追われ、敗戦と同時に放置されて後、今日に至るまで一顧をもえられない彼らに、少なくともわれわれ日本人はできるだけ早く接触し、彼らの意見と希望とを訊いてみるべきではないだろうか」と言っている。
満州、ボルネオと戦地を渡り歩き、背中に銃弾がかすった痕があった父は昨年87歳で死んだ。戦死した叔父もいる。未亡人になり苦労してきた女性もいる。戦争中のひもじかった経験を母や叔母からも聞かされている。思えば昭和24年生まれの私の周囲には戦争の傷を抱えて生きてきた人が何人もいた。しかし昭和から平成にかけての社会の急激な変化と共に、戦争の記憶もあたかもはるか昔の出来事のように忘れ去られようとしている。
「花と兵隊」を観て、愚かしくも悲惨なできごとを「知らない」では済まされないと思った。還暦を迎えた私たちがもっと知り、語り伝えなければいけない。そして二度と戦争など起こしてはいけない。
何度もビルマやタイに足を運び、忍耐強くインタビューをし、撮影し、編集し、貴重なドキュメンタリー映画として世に出してくれた松林要樹氏の熱意と努力と苦労に対して深く敬意を表すると共に心から感謝したい。是非とも「花と兵隊」の自主上映会を実施し多くの方に見ていただきたいと思う。

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2010.07.22  石垣島の旅日記

6月13日(日) 1日目
今は石垣島のホテル。高等部の生徒2人との石垣島への旅が、娘(二女)や夫の協力も得て実現したのだ。
沖縄が好きで来ている回数が最も多い娘はアドバイスをしてくれると共に、今回の旅のしおりも作ってくれた。夫は男同士という感じで、2人の若者に色々話しかけたり質問に答えたりしていた。
朝7:34に宇都宮を発ち、11:35のフライト。14:10那覇着、14:35那覇発、15:35石垣着。レンタカーを借り、ホテルにチェックインの後、バンナ岳山麓「エメラルドの海が見える展望台」へ。そして、石垣市内の居酒屋で夕食。
空の上は快晴。青空と白い雲の織り成す芸術の中を通り抜けてきた。石垣はうす曇状態で、残念ながらエメラルドの海は望めなかったが、さすが南国、むっとする熱気を感じた。バンナ岳山麓はにぎやかな蝉声に包まれ、石垣市街地や港、鬱蒼と茂る密林が眺められた。
夕食は、鮪の目玉の煮付け、豚足、海ぶどう、魚のマース煮、イカ墨ソーメン、県魚グルクンのチャーハン等々、沖縄ならではの食材に舌鼓を打った。
H君は、「飛行機に乗るのは初めてなので不安だったけど、落ち着いてここまで来られてよかった。羽田の展望台で着陸する飛行機を何機も見て、飛行機ってかっこいいなと思った」と、Y君は「石垣島に着いたとたんすごく熱さを感じ、南に来たことを実感した。飛行機は2回目だけど、ジェットエンジンの迫力に驚いた。蝉の鳴き声にも沖縄料理の新鮮さや美味しさにも驚いた」と語っていた。
6月14日(月) 2日目 
娘の家から約5分。明るい光が降り注ぐ米原ビーチでシュノーケリングを楽しんだ。砂浜から5?6メートルも行くとさんご礁。顔を海につけると、そこはもう南の海の魚たちの楽園だ。おしゃれな魚たちが無心に泳いでいる。身も心も解き放たれ、今地球のここに魚たちと共に生きているえもいわれぬ喜びに包まれ、魚たちと共に泳いだ。
2人の生徒も「すごい!」「きれい!」「手をだすと、指先をツンツンとつつく」とはしゃぎ、大自然の懐に抱かれ、自分を放ち切っていた。
昼食は、ソーキそば、海鮮丼、車えびの天丼などの海の幸をそれぞれに頂き、午後は工房「凛火」でシーサー作り。粘土をちぎったり丸めたり・・・、Y君もH君もしばし自分の世界。・・・しばらくすると、それぞれに個性溢れるユニークなシーサーが生まれ出た。
その後、長女の家でパイン、パッションフルーツ、スイカなどを頂き、夕食の材料の買出しに。5時頃、今日の宿「ふくろうハウス」に到着。エプロンを着け早速料理に取り掛かる。ゴーヤーチャンプル、ヘチマと肉の炒め物、グルクン(沖縄県魚)の焼き魚、焼きそばなど。料理は初めてというY君もH君も娘たちの指示に従い大活躍。古代米入りご飯もふっくらと炊け、ソーキスープや特産のかまぼこなどの差し入れもあり、石垣の食材尽くしの贅沢な夕食となった。
片づけをしてシャワーを浴び、ミーティングをして、充実した長い一日が終わろうとしている。
6月15日(火) 3日目 
今日は海神祭。力を合わせてカヌーを漕ぐ日焼けした青年のたくましい姿に、見ている私も興奮し心が躍った。海の恵みを受け、海と共に生活している土地ならではの催し物を間近に見ることができ、ラッキーだった。
午後は高速船で竹富島へ。水牛車に揺られ珊瑚の石垣の間の道を行く。左右にはシーサーが座る赤瓦の屋根の家。バナナ、パパイヤ、ドラゴンフルーツの木。そして真紅に燃えるハイビスカス・・・。ピンクのブーゲンビリアも梢高くそよいでいる。竹富の女性は美しく、その昔役人の現地妻として求められた女性がそれを拒んだという話を聞いた。波洗うこの小さな島にも悲喜こもごも人の歴史があったのだと、三線の音と島の哀歌に耳を傾けながらしばし感慨にふけった。黒糖ミルクのかき氷を食べ、郵便局ではがきを書いて、なごみの塔から島を見渡し、5:00過ぎに石垣島に戻り、今日の宿、内藤家へ。
縁あって、長女が石垣島の内藤家に嫁いで3年になる。お父さんや息子や友達みんなで作った手作りの家の3階のベランダでバーベキュー。晴れていれば輝く夕焼けを堪能することができるのだが、今日はうす曇り。娘夫婦とその子ども、お父さんお母さんみんなで夕闇迫る川平湾を眺めながら食べ飲み話が弾む。Y君もH君も本当に楽しそう。・・・私は途中で失礼してお休みなさい。楽しい一日を感謝しながら。
6月16日(水) 4日目 
6:15起床。ラブラドール犬「ドラム」と共に朝の散歩。海を見晴るかす高台の道。Y君もH君も娘も私も「すごいなぁ」「きれいだなぁ」「ステキ!」「映画のシーンのような風景!」など、感動の言葉を漏らしながら歩く。ドラムは大喜びで、流れる水路に飛び込んだりしながら草地を跳ね回る。
Y君は、歩きながら昨夜の印象に残った話をしてくれた。「内藤さんのお父さんが若い頃、簡単な家を作って野宿をしていたとき、台風で家が吹き飛ばされた。お金もお札はみんな吹き飛んでしまった。ほふく前進で追いかけたが1枚もつかむことはできず、残ったのは、5円、10円、100円玉だけだったんですって。『今度、台風体験ツアーなんてどう?いつでもおいで』と言ってくれました。先生のだんなさんの蝶の話もすごいと思いました。日光でマーキングされた蝶が石垣島で捕獲されたんですってね。その蝶は羽を広げて15センチぐらいなのに、2000キロも飛ぶんですって。・・・」
散歩から戻り、3階のベランダで昨日の日記を書き、朝食をいただいて、荷物の整理をして空港へ。「お世話になりました」「楽しかったです」「ありがとう」「また来てね」「さようなら」・・・。
会う喜びがあれば、必ず別れの寂しさがある。生きていれば、そのようなつらさは何度となく味わわなければならない。「エイッ!」と振り切って前をむいて明日に向かっていくしかない。娘家族に別れ、空港で同行した娘と別れ、宇都宮の駅でY君とH君とも別れ、一大イベントの石垣島への旅は終了した。
2人の高校生にとって、本当に言葉に尽くせないほどの濃密な体験ができたすばらしい3泊4日だったと思う。全般にうす曇りだったが、シュノーケリングやハーリー祭には明るく晴れ、雨の日は一日もなかった。天候に恵まれ、無事に行ってこられたことを心から感謝したい。

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2009.10.11   伊藤若冲の絵

 昨日、東京国立博物館で行われている「皇室の名宝」御即位20年記念特別展に行って来た。9時20分頃会場に着いたが、もうすでに蛇行した列ができていた。
 9時半開場。目指すは若冲の絵。一部屋通り抜けると伊藤若冲の世界が待っていた。まず「旭日鳳凰図」。釘付けになった私の心は震え、なぜか悲しみに似た感情に襲われた。寸分の疑いも不安もなく、生きていることがうれしくてたまらないような至福の表情。美しいこと極まりない肢体。鳳凰は私の心の奥の神域まで直入し、私の中の神と繋がった。立ち尽くした私の目に涙がにじみ、「私」が消えた。
 しばらくして我に返り歩を進める。精悍な鶏たち、鳥や魚や虫などの小動物、芍薬・菊・ひまわり・朝顔・蓮などの花・・・どれもなんと生き生きしていることか。もう一つの鳳凰図は純白。神々しいこと限りない。私はその場を去りがたく、何度も行ったり来たりして絵からほとばしり出る命を体一杯に吸収した。
 若冲は植物、虫、魚、鳥 ・・・等々この世に生きて在る命の輝きと、それらを生み出す神の御業に心底感じ入って表現したのではないだろうか。その業と集中力はむろん神技。若冲の中の神が膨らんで描いたのだろう。
 若冲の絵を見て、この世は命の楽園、ワンダーランドなのだと実感する。そしてそこに今こうして生かされていることの有難さと不思議さを改めて感じる。まさに奇跡! 
 今もまだ至福感に酔いしれている。

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2009.09.12    鈴木和子さんの国際教育学会発表原稿

算数・数学の学力底上げはできる!

鈴木和子(すくーるダンボ)

《はじめに》

計算のプリント教材を使った学習教室で、幼児から大人までを対象に17年間、約80名を指導。5?6歳の頃に学習を始め、7?8年の間ほとんど毎日継続して学習した子供たちがつまずく計算は、中学生や高校生でプリント学習をはじめる生徒たちがつまずいている計算とほぼ一致することに気づく。

 学習する生徒自身が自己情報を持ち、繰り返し練習することで、小学校低学年からつまずきやすい計算の習得はもちろん、中学生や高校生であっても、小学校で習得しそこなっている計算をきちんとやり直すことができ、学年レベルの数学に取り組む力がついていく。

 どのような計算でつまずいていたかのデータを基に、算数・数学の学力をつけていった生徒の実例を紹介し、底上げのための提案をする。

《5,6歳で学習を始めた子供のつまずき》

5,6歳で学習を初めて7?8年程度継続している子供たちに繰り返しの多いのが、横式の足し算の計算(+1?+9までの繰り上がりのある足し算と、2桁同士の繰り上がりのない横式の足し算)。次に多いのが横式と3桁同士の筆算も含んだ引き算。

100枚以上を繰り返しているプリントは、どれも、+1の計算(問題数が少ないもので50問、多いもので84問。すらすらできると3分台)

100枚以上繰り返すプリントをやっていた時点ではどの子も小学校に入学していたが、足し算と引き算のプリントを全部終えるまでに小3になっている場合もあった。小学校に入学する頃の6歳程度の子供にとって足し算引き算の習得はとても時間のかかるものだということがわかる。しかし、足し算の習得に時間がかかった子たちが学校の勉強で困ることはなく、小学校を卒業する頃には小5、小6相当あるいは中1相当のプリントまで進んでいた。

足し算から引き算までのプリントができれば掛け算は繰り返しが減り、割り算も解き方のコツがつかめれば繰り返しは足し算引き算より少なくなっている。小学校の低学年で足し算引き算を桁数の多いものや横式のまま解くものも含めて深くじっくり学習して習得するのが、その後の学習についていける下地になる。

 

《中高生でのつまずき》

5,6歳で学習を始めた子供たちが繰り返しの多かった足し算や引き算は、中高生でプリント学習を始める生徒のほとんどがつまずいている。

どのプリントから学習をはじめたらよいのか知るために何種類かプリントをやってもらうと「15+8」のような「繰り上がりのある2桁+1桁」や、「23+15」のような「繰り上がりはない2桁同士の足し算」が「横式で120問」あるプリントはほとんどの子が、すらすらできない。+6以上を足すのが苦手ということも多い。

「すらすらできる」というのは、鉛筆が止まらずにすっすっと答えを出している状態で、ミスも三つ以内。すらすらできると5分程度のプリントに7?8分かかる。その状態だと途中で手を止めて考えていることが何回かおきる。

中には横式のままで計算できず、縦式に書き直して筆算でやる子もいる。中高一貫の私立に通っている中1の子は縦式に直して計算していた。横式の足し算が終わった後、ためしに正負の計算や文字式をやったら、二桁の数字が出てくると縦式の筆算に書き直して計算し、中学の問題を一問解くのにとても手間取った。+6から+9までの復習をした後で中学の問題をやったら横式のまま計算できるようになった。

中学以降の数学では方程式や式の展開や因数分解をはじめ横式が多いので、2桁程度までなら横式のままで計算できることが中学の数学をスムーズに学習する上で重要。

《中学生の事例》

中学生で学習を始めた二人がどのような計算でつまずき、どんな特徴があったか。

    Aさんの場合

3で学習を始めたAさんは、足し算の繰り返しが一番多い。特に繰り返しの多かったのが+4ばかりの計算。

この子の特徴は1枚目をやったときのミスが多いこと。繰り返していると、次第にミスは減るが、少なくなったミスの中でもいつも同じ間違いがあり、8+48+6というような特定の数を間違いやすいことがわかった。間違うものだけを取り出して別の紙に書いて数回練習したら間違わなくなった。

割り算からは時間もかかり、一枚目ではすらすらできるめやすより5分以上オーバーすることが多く、ミスも10個以上のことがあった。分数も繰り返しが多い。帯分数を仮分数に変えたり仮分数を帯分数に変えることがまったくできなかった。

一年程度で通分の必要な異分母の分数計算まで学習が進んだ。分数ができるようになったら三角比の計算もできるようになった。

Bさんの場合

1で学習をはじめたBさんは発達障害があり特殊支援学級で数学の授業を受ける。学習の開始はやはり横式の足し算。+2の練習からはじめた。

横式の足し算もすらすらできなかったが、さらに繰り返しが多かったのが筆算の掛け算。3桁×2桁の筆算の掛け算で掛けていく手順がなかなか理解できなかった。また割り算も繰り返しが多いが商を推測するのに時間がかかった。しかし、商を立てた後の計算は滞りなくできる。筆算での3桁同士の引き算をすらすらできるまで習得した効果が出ている。

割る一桁の割り算が終わる頃から中学の数学もプリントや教科書で平行して学習。桁数の少ない割り算までがすらすらできていれば、整数だけの問題ならやり方さえわかれば中学の数学もかなりスムーズに解くことができる。

中1で入会し、分数計算まで進んだ中3の時には一次関数や連立方程式、式の展開、因数分解、平方根の計算などが解けるようになった。

 

《習熟すべき計算の内容》

算数・数学の学力の底上げのために習熟する必要があるのは次のような計算。

1.足し算

繰り上がりのある2桁+1桁・2桁同士の足し算は横式のままで答えが出せる。

2.引き算

 繰り下がりのある2桁?1桁や2桁同士の引き算は横式のまま答えを出せる。

引かれる数が3桁で10の位に0がくる繰り下がりのある引き算の筆算が間違いなくできる。

3.掛け算

3桁×2桁までの筆算の掛け算ができる。

450×500200×60のような0を含む掛け算は横式のまま答えが出せる。

4.割り算

あまりのある横式の割り算(九九で解いてあまりの出るもの、400÷200,600÷30のように0を含むもの)は横式のままで答えが出せる。

 割る2桁以上の桁数の多い筆算の割り算が間違いなくできる。

5.分数の計算

帯分数と仮分数の互換、分数と少数の互換、約分、異分母の分数の足し算引き算、分数の掛け算割り算

《まとめ》

 私の教室では、時間を計ることや答え合わせは子供が自分でやり、プリントをするのにかかった時間やミスの数、どんな間違い方をしたかなどの情報を子ども自身が持っているので、できないプリントは自分から繰り返し練習する。子供が自分で習得したかどうか判定できる時間やミスの数という基準があると、指導者がやらせようとしなくても、子供は自分から繰り返す。

 1日の練習時間は10分か15分程度でも、毎日続けていればできるようになっていく。できないことの上にさらにできないことを重ねていかないことが大切。

そのためには、

1.学年の枠にとらわれず、個々の生徒のつまずいているところを繰り返し練習する。

2.競争ではなく、その子なりにステップアップしていける援助をする。

3.習得のための段階を踏まえて、ひとつの計算を基本形だけでなく多様なパターンまで深く学習する。

指導する教師や親は「手間をかけずに早くできるようになることが良い」「一度でできたらえらい」というような価値観を持たずに、その子なりに一段階ずつ習得していける時間を保障することが基礎学力の底上げにつながっていく。

子供たちはできるようになりたいと思っているから、できるようになる実感があれば自分から進んで練習する。必要なのは、テストではなく子ども自身が自分の状態を知って取り組める練習。漠然とした「できない」「苦手」から具体的な「これができない」を見つけ、一人ひとりのつまずいているところをしっかりと習得することで、多少の時間的なずれがあってもどの子も中学程度までの算数・数学の学力を身につけることが可能。

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2009.07.25  日野原重明先生と握手

2009.7.12
昨日(711日)は、母校、甲府第一高等学校の同窓会に行って来た。

97歳でいまだ現役で大活躍の聖路加病院名誉院長の日野原重明氏が講演においでくださった。私は常々、日野原氏の私意の無い明るく快活な活躍ぶりに喜びと爽やかさを感じるとともに尊敬の念を抱いていた。是非ともお話をお聞きしたいとわくわくして参加した。

今回の講演会は、日野原氏が、かつて第55代総理大臣の石橋湛山氏の主治医だった。石橋湛山氏は母校甲府第一高等学校の卒業生。そして、今回の同窓会の幹事が日野原先生の息子さんと職場がご一緒(NHK)等のご縁で成立した。お話は石橋湛山氏の高潔な人柄や業績について、また健康の秘訣や新老人の会のことなど、今後の私の生き方にも大きな示唆を与えられるものだった。講演会終了後、別室でお会いし、サインをしていただいたり一緒に写真を撮っていただいたりすることもできた。

日野原先生は、私が提携しているさくら国際高等学校の支援者でも在られ、昨年の卒業式には上田市まで出向かれ、生徒や職員にお話をしてくださったと聞いている。私が名刺をお渡し、さくら国際高等学校のサポート校になっていることをお話すると、「そうですか、頑張ってください。応援しています」としっかり手を握ってくださった。その手は、真綿のように柔らかくて温かく、心が優しく包み込まれるような感じがした。

《日野原重先生のお話》 演題 ― 石橋湛山先生と私&生涯現役100歳を生きる―
― 寛恕の人湛山先生 ―
まず、NHKテレビの「そのとき歴史が動いた」で放映された石橋湛山氏の活躍ぶりが同窓生のナレーションと共にダイジェストで写された。首相の座を決める決選投票で、259251で、石橋湛山氏が岸信介氏を下し首相の座に就いた。しかし脳梗塞に倒れ、二ヶ月で総理大臣を辞職する。その後単独で中華人員共和国の周恩来首相に会い、中日米ソ平和同盟を提唱。「日本と中国は両国民が手を携えて極東と世界の平和に貢献すべきである」という石橋・周共同声明を発表。そのことが効を奏し1960年、中国との貿易が再開し、この声明が後の日中共同声明に繋がったということだった。以下日野原先生のお話。

湛山先生は、日蓮宗総本山身延山久遠寺の第81代法主の長男として生まれ、10歳で、後に83代久遠寺法主となる長遠寺住職望月氏に預けられました。その後山梨県立甲府第一中学(現甲府第一高等学校)に進みました。そこで、札幌農学校(現北海道大学)でクラーク博士の薫陶を受けた大島正健校長に出会い、大きな影響を受けました。以後、湛山先生の枕元には日蓮遺文集と聖書が置かれていたといいます。また、湛山先生宅の玄関には「いたずらに思い煩うな。野の百合を見よ」という、キリストの言葉が掲げられていたそうです。湛山先生は仏教とキリスト教を根源的なところでタッチされ、アウフへーベン(aufheben止揚)された方でした。

惜しくも病に倒れられ、二ヶ月で総理を辞職されました。残念でありますが、その潔さと勇気には感銘を受けました。退くには勇気と決断力が必要です。18年間お世話をさせていただいて、湛山先生はまさにキリスト教で言うなら「愛の人」、仏教的に言うなら「慈悲の人」でした。愛とは寛大な心で許すことであり、慈悲とは困っている人がいたら共に悲しむ心のことです。湛山先生は寛大な寛恕の心のお方でした。911事件を例に挙げるなら、共に悲しみ「今度からするなよ」と言えばテロはなくなるのです。やっつけようとするからテロはなくならないのです。

湛山先生は一人ひとりが自立して物が考えられる人間になることが大事だとおっしゃっていました。また、宗教の力をいただく必要があるとおっしゃっていました。私も一人ひとりの人間が本来の宗教心を持ち、変わらなければ日本は変わらないと思っています。

― 長生きの秘訣はhungry
。(吸うより吐く、takeよりgive) ―
私たちの命とはいったい何なんでしょう。心臓でしょうか、体でしょうか。いいえ、どちらも土になる、土でできたと言ってもいい土の器なのです。命とは目には見えないものです。本物は、本当に大事なものは、目には見えないのです。時間も目には見えません。私は「使える時間があることが命があること」だと思っています。時間を何のためにどう使うか大人になったものは考えなければなりません。

私は、その日によって若干異なりますが、だいたい寝るのは1時か2時頃、起きるのは6時頃。118時間仕事(活動)していますが、生きがいを感じ充実した時間を過ごしているため、疲れません。床に入ると2分で熟睡。うつ伏せに寝るのが理想的。朝起きたとき良く眠った爽快感が得られます。特別に運動する時間は取れないので、生活の中で、簡単な体操をしたり早足で歩いたり、荷物を持ったまま階段を二段ずつ上がったりなどして意識して体を動かすようにしています。摂取しているカロリーは毎日約1300Kカロリー。そのうち1200Kカロリーは基礎代謝に使われるので、残りの100カロリーで、講演、治療、教育、執筆活動をしているのです。

例えば3000円のバイキング料理なら、4500円分も食べるから病気になる。1500円分にしておけば健康でいられる。いろいろな実験からもハングリーの方が長生きできることがわかっています。そして、集中して仕事をしていれば空腹は感じません。

健康で長生きをするコツは、熟睡することと、適度な運動をし食べ過ぎないこと、生きがいを持つこと、それにもう一つ、ゆっくり深い呼吸をすることです。ヨーガなどでは1分間に2回と言われていますが、長い息は、長生きに通じるのです。そして深く長い呼吸をするためには、まずよく吐くことが大切なのです。長く吐くことで、体内の炭酸ガスが放出されます。放出されれば、自ずと新鮮な空気が入っていくのです。つまり、takeよりもgive、が大事なのです。

― 希望と勇気を持って天に非戦のサークルを描こう ―
誠に残念ですが、現在の政治家は恥ずかしいような政治家ばかりです。今のような状況ではとうてい文化国家とは言えません。政治家が情けない状態なら、自分たちで政党に頼らない運動を立ち上げやっていく必要があります。私は湛山先生の遺志を継いで、不戦ではなく非戦の世の中にしていきたいと思っています。新老人の会を作り募金をつのったところ、予定していた一億円以上が集まりました。お陰で江戸時代に漂着したジョン・万次郎が育てられたアメリカの家の修理が済み、永久建築物として保存されることになりました。核兵器を無くすための会議が、オバマ大統領をはじめ世界の要人を招いて、その建物の中で行われたらいいなと思っています。

新老人の会は、75歳以上のシニア会員、60ー74歳のジュニア会員、2059歳のサポート会員からなっていて、全国に31の支部を設けて活動しています。会は、「愛し愛されること」「創めること」「耐えること」を合言葉に、地域に根ざした活動をしています。年会費は、シニア、ジュニア会員が10000円、サポート会員が5000円です。夫婦で入会された場合は二人でこの金額です。現在約4万人の会員がいます。みなさんも、是非ご一緒に活動していきましょう。

人は誰と出会うかがとても大事です。誰と出会い誰と共に道を行くか。そしてどのように行動に移していくかが大切なのです。ブラーミンという詩人は天に大きなサークルを描きなさいと言いました。私は人々が生き生き楽しく生きていくためには希望と勇気が大切だと思います。真に平和な世の中になることを願い、お互いに希望を抱いて手をつないで、勇気をもって活動していきましょう。皆で天に大きなサークルを描いていきましょう。 
                                                     ―以上―

[]
「新老人の会」の新老人という言葉にも、シニア会員(75歳以上)、ジュニア会員(64ー74歳)、サポート会員(2059歳)の言葉にもユーモアを感じ、笑いがこみ上げてきました。前から三列目に席を取り、先生の表情や仕草をしかと見ながらお話をお聞きしました。長い間学び、研究し、働き、多くの人の病や死に接し、多くの人の心身を癒してこられた先生の、大きさ優しさが伝わってきました。私は、人の一生を「芽を出し、青々と茂り実を結び、熟し、成熟し、美味しい果汁や、栄養、喜びを人々にふんだんに与える・・・」と、果実になぞらえて書かれていた文章を思い出しました。日野原先生はまさに、たわわに実り、熟し、熟成され、人々に美味しい果汁を惜しみなく与えてくれている。

本来老人になるとは熟していくことなのでしょう。私も還暦を迎えましたが、まだまだ青いと感じました。成熟まで行かなくても、せめてしなびて落ちてしまわないように、そしていささかなりとも、後に続く人に、私なりの味のある甘い汁を差し上げられるようになりたいものだと思いました。

今このように生かされていること、そして奇しくも出会うことができた日野原先生、同窓生の皆々様、そして日野原先生が「日本人の肖像をもつ第一人者」とおっしゃる、我が高等学校の大先輩であられる石橋湛山先生に心から感謝いたします。

ありがとうございます。

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2009.07.04   7.3 ワルシャワ国立フィルハーモニー管弦楽団

  ワルシャワ国立フィルハーモニー管弦楽団の演奏会を聴いてきた。指揮は同楽団総監督のアントニ・ヴィット。ピアノはスタニスラフ・ブーン。  
 まずは、ショパンのピアノ協奏曲第一番ホ短調。洗練されたオーケストラの音色にピアノの鮮やかな音が溶け込み、その美しさは優しく悲しく胸に迫ってきた。私の心は浄化され、体の細胞の一つ一つが目を覚ましていくかのようだった。

 休憩の後は、チャイコフスキーの交響曲第六番ロ短調「悲愴」。終楽章に至っては、体の隅々まで完全に細胞が開き切り、美酒に酔いしれたような至福感。
 極上の音楽は魂に訴えかけてくる。ショパンやチャイコフスキーの魂と、はるばるワルシャワからやってきた楽団員の方々の魂と私の魂が、時空を越えて溶け合った。

 作曲者がいて、演奏者がいて、聴く人がいる。・・・お互いに他者(相手)がいて初めて存在価値が生まれ高まる。人間とはまさに字のごとく「人の間で支え支えられて」輝きを増す生き物なのだ。生きるってなんと妙味ある楽しいことか。

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2009.05.28  不登校の原因

宇都宮大学 不登校について学び・つながる会 第2回 資料  
                         
学びのもり タオ   高橋享子

 

 実家の父の法事のため今回は参加できませんので、これまでに不登校のお子さんや親御さんに接してきた経験を通して感じている率直な思いを書いてお伝えいたします。
 
 
まず不登校とはどういう状態をいうのか確認したいと思います。
「行きたくない」というお子さんと、「行きたいけど行けない」というお子さんが居ますが、どっちにしても、子どもが「学校に行けなくなった」状態を言います。そして行こうとすると(行かせようとすると)、実際にお腹が痛くなったり、吐き気を催したり、頭が痛くなったりなど気持ちが悪くなります。
 では、どうして「行けなくなる」のでしょう。その場が自分にとって楽しい場所、有益な場所と感じられるなら嬉々として行くでしょう。しかし自分にとってつまらない場所、悔しい思いや恥ずかしい思いをさせられる場所、意味が見出せない場所であったら行きたくなくなるでしょう。つまり、学校に行けない、行きたくないという子にとっては、学校がそのような場所なのです。
 私は常々、不登校の問題を考えるとき、学校の実態は検証されずに、あたかも行けなくなった子どもが問題であるかのように、子どもの側のことばかり議論されるのはおかしいと思っています。
 では学校の現状はどうでしょうか。25年の教員経験から、私の知るところを書いてみます。
・クラスに振り分けられ、机と椅子を与えられ、決められた教室で30人?40人が一斉に授業を受ける。
・分刻みの日課で非常に慌しい。
・授業は、文部科学省が決めたカリキュラムに沿って教師主導で進められ、自分がよくわからなくても、指名されたり、テストされたりして進んでいく。
 ※ 先生によっては指導がおざなりで、非常にわかりにくい。にもかかわらず、わからないのはお前が悪いといった調子の高飛車な方もいる。
 ※ 子どもが「恥ずかしい!」と居たたまれないような言葉を投げつける方もいる。
 ※ 先生が生徒の気持ちを聞かずに一方的に命令したり押し付けたり、決め付けたり、怒ったりすることから、生徒一人ひとりが不満や憤りを感じていて、粗野な言葉が飛び交う殺伐としたクラスになってしまっていることがある。
※ 学校に行っても、授業はどんどん進むし、騒々しく落ち着かず、勉強ができるようになっていくとは感じられない。 etc
 
 このような学校にあっては、本当に辛く、「嫌だな?」「こんなところへ来たくない」と思うお子さんが出てくるのも当然だと思うのです。しかし辛くても「学校は行くべきもの」と思わされているので、浮かない気持ちのまま我慢して足取り重く通う。しかし、心と行動のギャップから体はさまざまな症状を表し、学校に行けなくなってしまうのです。
 不登校の原因ははっきりわからないことが多いとよく言われますが、私は上記のような状況の中から生じてくることがほとんどだと思います。つまり不登校の原因の多くは「学校が自分にとって安心して学び成長できる場ではない」ということです。
 私は、小学校、中学校と長い間学校現場に居て、「あんなところに行きたくない。嫌な気持ちにさせられるだけで、自分が自分でいられない」といった気持ちを抱かざるを得ないような学校現場のあり方や、先生の無神経な対応を目の当たりにしてきました。行けなくなって当然と思われるような場所に行けなくなったらそれは何も問題ではないのではないでしょうか。それが正常で、感受性豊かな子ほど苦痛は大きいと思います。
 全うな子を責め、相談機関に連れて行き検査を受けさせ、生育暦を調べられ、ひいては夫婦関係や嫁舅問題まで引き合いに出される。あるいは、みんなが行っているところに行けないうちの子はどこかおかしいんじゃないかなどと考え、医者に連れて行く。そして周りの無理解のために、落ち込んでしまったりイライラを募らせてしまっている子に対して、精神安定剤や睡眠薬を処方される。すると副作用で頭が朦朧となる。・・・ますます意欲がなくなりすべてがかったるくなる。すると、前の薬は効かないからと量を増やされたり、強い薬を処方される。すると今度は幻覚や幻聴が・・・。
 
 そもそも不登校は病気ではないのですから、医者に連れて行き薬で治そうとするのは見当違いもはなはだしいと思います。しかしそうやって一層お子さんを混乱に陥れてしまった痛ましいケースがなんと多いことか。
 親御さんには、「学校に行きたくない」というお子さんを信じて、よく話し合い、真にお子さんが生き生きしていく方向を考えてほしいと思います。子どもたちはみんな学びたがりです。勉強ができるようになりたい、いい子になりたいと思っています。
 
 私は、「誰もが安心して学び自分を成長させていける場所を」との願いの下に「学びのもりタオ」を開きました。13年目を迎えましたが、不登校のお子さんが何人も「らくだメソッド」でしっかりと基礎学力を身に付けると共に、自己信頼感を高め、それぞれの道に進んでいっています。
 今年から、高校卒業資格を得るために週3日朝から来て学べる通信制高校のサポートをする高等部を開きました。現在2名が主体的に学んでいます。ご希望があれば、同じ時間帯に小学生でも中学生でも受け入れ可能(3~4名)です。らくだメソッド塾の方は今のところ10名くらいは受け入れられます。
 「タオ」での学習はどこの小中学校も出席扱いとし、指導要録への記載はもちろんのこと、受験の際は調査書にも記入していていただいてます。
 
 「義務教育」とは「親御さんがお子さんにふさわしい場所で教育を受けさせる義務」のことです。既存の学校に行く義務ではありません。どのお子さんも自分を責めたりすることなく、心楽しく学び、しっかり実力を培っていくことを願っています。
 
 どうぞお気軽にご相談にお出でください。

              〒321-0962宇都宮市今泉町455 小林ビル3階 学びのもり タオ 高橋享子
                  Tel 080-5549-4978   http://www.manabinomori-tao.com

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2009.05.20   A君来室

 5月5日、ご両親と一緒にA君(15歳)来室。父親のお話の概略は次のようでした。「小中学校と特別支援クラスに居て、高校に行きたいというので市内の私立高校を受験させたが、不合格。行くところがないので仕方なく今は特別支援学校と言うようですが、養護学校に入りました。ところが、息子は『あそこは合わない、続かない』と漏らすようになり、先日は頭に円形脱毛ができているのに気付き、かなりのストレスじゃないかと感じました。どうも、先生に養護手帳を取るように強く言われるのがとても嫌なようです。先生は養護手帳を取れば交通費が安くなるなどと言って勧めるのですが、本人は嫌だと言うんです。また日課の中に「作業」という時間が何時間もあるようですが、それもつまらないというか興味が持てないようです。それに毎日マラソンもあって、かなり走らされるみたいで、この体ではそれもきついようです。頭に禿ができるほどなのに、このまま無理に行かせてうつ病にでもなられたらそれこそ大変だと思います」 
  お話を聞いて私は次のように話しました。「A君は養護手帳を取りたくないと意思表示できるのですから、養護学校で学ぶことにあきたらない力を持っているお子さんだと判断しました。これまでも、小学校中学年頃から中学校までずっと特別支援クラスに居たというお子さんが何人も来ましたが、ほとんどが算数は、簡単な足し算と引き算と掛け算九九が少々できる程度でした。文字はひらがなと小学校1年程度での簡単な漢字が書ける程度。正直、9年間どんな特別支援を受けてきたのかと疑問に思いました。  
   しかしそのようお子さんでも、「らくだメソッド」で学んでいくと、足し算、引き算から掛け算、割り算、分数・・・としっかり学力を身につけていきます。学校は、初歩の段階でのつまずきが原因でわからなくなってしまっている子どもに対して、そこに手を差し伸べることをしないで、できないから特別支援クラスに・・・。となってしまっているようです。つまずき箇所を発見し、そこができるように援助指導すれば特別支援クラスに入らなくて済んだだろうと思われる子が大部分です」と。 
  そのような話をした後、A君は何枚か提示したらくだプリントの中から小1ー1(目安時間3分)を選びやってみました。途中37+1、49+1などでちょっと考えこんでいましたが「この次の数は?」と声を掛けると鉛筆が動き出し、最後までやることができました。6分19秒かかりましたが、その後自分で答え合わせをして、ミスは0。そのにこやかな顔といったらありませんでした。  
  タオには現在、夕方から週1~2回来る塾コースと、週3日午前中から来て学ぶ高等部があることを説明したところ、A君は高等部に入学して勉強し、力が付いたら高校を受験するということになりました。そこで入会の用紙に住所氏名を書いてもらおうとしたところ、躊躇していたので、「ひらがなでもいいわよ」と声を掛けましたが、父親に免許証を差出され、A君はそれを見て住所を丁寧に写しました。私は、「これだけ、見てちゃんと書けるのだから、漢字も書けるようになっていきますよ」と言いました。  
   帰りがけにお父さんは、「私の姉がこちらの教室のチラシを持ってきてくれたので、祝日なので失礼かとは思ったんですがお電話してみました。そしたらその日のうちに時間を取っていただけ、本人もここでしっかり勉強していくという気なったようです。よかったです」と、本当にほっとした様子で帰っていかれました。私は、「タオに出合え、らくだメソッドに出合え、彼なりに一歩一歩学力を身につけていくことができる。よかった!」と思いながら、ご家族の後ろ姿を見送りました。  
 5月12日  
  午前10時。A君はにこにこ顔でやってきました。宿題として持ち帰った小1ー1のプリント7枚を出して見せながら、「全部やったけど、時間が5分とか6分とか上がったり下がったりしている」と、言うので、幼児―13の0から130まで順序数を書くプリントを見せ、「次の数字がすぐに思い浮かび、すらすら書けるようになれば、+1の計算はすぐできる」というと、「じゃこれをやります」と言うので、今日はまず、幼児ー13をやりました。結果は、目安8分のプリントですが、17分9秒かかり、ミスも10個。見ていると0、5、7、8の数字の書き順も違っています。そこで、教材を見せながら話し合い、数字の書き順や字形が学べる幼児ー0を何枚かやり、幼児ー3、幼児ー4で数字の書き方に慣れた上で、幼児ー13に行くことにしました。 
  A君はひとしきり集中した後顔を上げ、「こういうふうにやっていくと、できるようになっていく気がする」とつぶやきました。私は「そう、よかったわね。A君はしっかり勉強がしたかったんだね。らくだプリントで学んでいけば、実力をつけながら一歩一歩進んでいけるよ」と言いました。すると、しばらく自分の思いを話してくれました。私とのやり取りは次のようでした。
   A   「ぼくは中学校までずっと特別支援クラスに居て、できないままで来た。それで、特別支援学校 に  行 け ば、難しいことをやらないで、簡単なところからていねいに教えてもらえると思って、今度こそちゃんと勉強していけると夢を描いていた」  
  私 「夢?」 
 A 「夢っていうか・・・、自分で勝手に考えていたっていうか・・・」 
  私 「想像していたっていうこと? 丁寧に教えてもらって、だんだんできるようになっていくと」
  A  「そうそう、そうなんです。でも、ぜーんぜん違っていた」
  私 「えっ?ぜんぜんちがっていた?」  
  A  「そう、ぜーんぜん。勉強の時間は少なくて、それもテストばっか。どんどん進んでちっともわからない」 
 私 「そうか、特別支援学校に行けば、じっくり丁寧に教えてもらえると、夢を描いていたけど、現実はぜんぜん違っていたんだね」 
 A君は大きくうなずき、しばらく考え込んでいましたが、さらに次のように続けました。 
 A  「ぼく、おかしいと思うんだよな。学校って。できる子がちょっとで、できない子っていうかわからない子がいっぱいいるのに、どんどん進んでいくんだから。特別支援学校も同じだった。できない子が いっぱいいるのにって言うか、できる子ほとんどいないのにテストしてどんどん進む。どう考えてもお かしいと思うんだけど」 
  と本当に不思議そうに頭をひねるのです。
私 「私もそう思う。私は学校の先生をしていたからよくわかる。まだよくわからない子、できない子をそのままにして進まなければならないことが本当に辛かった。だから学校を辞めてタオを開いたの。 ・・・ あと、作業の時間が長かったとい言っていたけど、どんなことをしたの?」  
 と聞くと、  
 A 「週に何時間もあって、木工ともう一つなんだっけ?・・・二組に分かれて物を作るんだけど。それを売って学校のお金にするらしいんだけど。・・・ぼく、なんでこんなことしなきゃならないのと思った。マラソンと売るものを作りに行ってるような感じだった」  
  と言うのです。私はA君の気持ちと学校の様子を聞いて、正直驚いてしまいました。話したらスッキリしたのか、また集中して注意深く数字の練習をしました。お弁当を食べて午後は、ひらがなプリント小1ー3を2枚やり、ノートにも何回も練習しました。そして、午後2時頃、予定より早めに「今日はいっぱい勉強したな」とつぶやきながら帰っていきました。 

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2009.05.11    5月 6日 還暦の朝

還 暦 の 朝

還暦を迎え 私は今日再び生まれた

スッキリした晴れやかな心で

間に合った!

読み(聞き)、考え、実行し、煩悶し・・・

学校を辞めてからの私はその繰り返しだった

その中身はと言えば

自分を見つめ、それまでにくっつけてしまった張りぼてをはがすこと

少しずつ少しずつ軽くなり 真の自己が見えてきた

そして60歳を間近にして 長い間私を捉えて放さなかった得たいの知れない不安から開放された

私は私ではない 大いなるもの(神)がこの肉体となって生きている

大いなるものが想像もつかない大いなる源からやってきて

自我意識を持った生命体としてこの世に生きる それが私

果てしない経過の中のほんの一とき この地球という星に生まれ 生きている

遥かなる宇宙 輝かしい自然 そして知力と心を宿す見事な小宇宙・・・この体

私は知った

この肉体は 神がこの世を生きる乗り物、行為の道具と

だから 神の声にフィットした行為をしたとき 私という個我は限りない喜びを感じるのだと

陽の光、大空、海、山、河、大地、花、星、・・・そしてこの肉体

すべてを無償で頂き生かされている

永遠不滅の神の命が

大宇宙の中の一生命体として顕現し今ここに生きている

諸々の執着は消え 再び人生のスタートラインに就いている


 



 



 


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2009.05.04  澤地久枝さん講演会に参加して

 5月2日、作家澤地久枝さんの講演会に行ってきた。「憲法9条を守る会」主催だ。 

  私はこれまで政治についてあまり関心を払わずに来た。自分の地位や名誉のために声を張り上げ動き回っているような政治家ばかりが目に付き嫌気が差していたのだ。 しかし社会は政治によって動かされている。その社会に身を置きながら、他人事のように政治には関心が無いなどと言っていてはいけないのだ。

  今の私にはそこにどんな思惑があるのかわからないが、戦争ができる国になるよう憲法を変えることを考えている政治家や人々がいて、確実にそちらの方向に進んでいるという。「戦争はいけない。9条を守ろう」と、79歳になる澤地さんは懸命に訴えていた。「黙っていてはいけない。私も意思表示をしていかなければ」と思った。

  私が仕事としている教育とても、当然のことながら社会や政治と深く関わっている。平気で落ちこぼし、あえて二極化を勧めているかのような点数主義の文部科学省のやり方は、本当に「自分で考え判断できる人間」を育てようとしているのかと疑問に思われる。教育の名の下に「自分はこの程度」「自分はだめ」と思う人間、疑問を持たずお上の言うことを聞くしかない度し易い人間をつくりたいのかと思ってしまう。

  澤地さんも、「群集心理に巻き込まれない、自分の頭で考えて行動できる真に自立した人間になっていかなければならない」とおっしゃっていた。しかし、今の学校のあり方は「自発性を育て思いやりのある人間の育成」などと言いながら、どう見ても現実は、人間が本来持っている自発性をもぎ取る教育、他者への思いやりをそぎ落とし考えることをしない人間の育成だ。

  表向きは「一人ひとりの掛け替えのない人間の幸せ」などと言いながら、裏では実は一人ひとりなどどうでもいい思惑や画策がうごめいていると聞いたことがある。知らぬは気のいい民衆だけか。それが本当なら恐いことだ。しかし現に、昨今の経済の悪化に伴い、「軍需産業を活発化させれば」などということを大っぴらに言う人間が出てきたとか。目先の自分の利益のためには、世の中がどのようになろうとも大衆がどのようになろうとも関係ない倫理観の欠如した頭の良い行動力のある人間がいるのだ。

 今後は社会に目を向け、子どもたちが一人の人間として自立し真に幸せに生きていけるよう、騙されないよう学びながら忍耐強く意思表示をしていきたいと思う。またそのような仲間を増やしていきたい。

  たまたま一昨日(5/1金)、高等部のY君と一緒に田宮虎彦の『沖縄の手記から』を読んだばかりだ。そこには大勢の負傷兵が血膿の臭いでむせ返る壕の中で、虫けらのように死んでいく様が描かれていた。読み終わったとき、「すさまじい!」「むごい!」とだけ言い合い、二人ともしばらく黙りこくったままだった。

  日本国憲法 第9条〔戦争の放棄、戦力および交戦権の否認〕 1. 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力によ る威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。  2. 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認 めない。

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2009.05.01  エマ音楽院ピアノコンサート(発表会)

 4月29日、いよいよその時がやってきた。 ショパンン作曲「ノクターン0p.9-2」。 アナウンスを聞きスポットライトを浴び、お辞儀をし、椅子の高さを合わせ・・・、「ララ~、ラララ~ラ、ララ~ララララ~ラ、ラ~ラ~ラ・・・」そこで、左手の和音が違ってしまい、次が狂い・・。「ああ・・・次がわからない!・・・」・・・リズムは刻んだまま、とっさにスタートに戻ってもう一度最初から・・・。・・・・・・完全に自分を失ったまま途中何度もつかえながらやっと最後の「ラララ、ラララ、ラララ・・・」の安堵のメロディにたどり着き終了。  今年こそは自分を取り逃がすことなく落ち着いて弾きたいと、私なりに練習はしてきた。なのに・・・またまた散々な結果となってしまった。  発表会は2年に一度開催されるが、いつも「恐い、出たくない」「逃げるな!」の葛藤の末、毎年参加し続けてきた。1回目は「エリーゼのために」(ベートーベン)、2回目は「アラベスク」(ドビュッシー)、3回目も「アラベスク」(ドビュッシー)、4回目は「ノクターン」(ショパン)、そして今年は5回目。前回のリベンジを掛け再び「ノクターン」(ショパン)。  この音楽院でレッスンを受けるようになって丸10年が過ぎた。そして発表会のステージも5回目となった。だがしかし、聴衆の前で弾くということは、なんとなんと大変なことか・・・。満足に弾けたためしが一度もない。  帰り道、心は意外と晴れやかで、逃げずに参加した褒美にブランデーケーキを一本買って帰った。「来て欲しくない」と言ったために押入れの整理をしていた夫だが手を休め、「前より練習していた。参加することに意義がある」と言いながら、コーヒーを入れてくれた。私に差し出されたお皿には幅7~8センチもある分厚いケーキが載っていた。

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2009.04.26  高等部スタートの日

 4月23日高等部初日。私は増渕君の学習に対する心構えがしっかりでき、心に残る日にしたいと考え、アールグレイの紅茶をバックにいれ、途中のケーキ屋さんでプリンアラモードを二個買って、何を話そうかと考えながら教室に向かいました。
 
 予定の10時半、携帯にメール。「すみません。寝坊です。15分遅れます」とM君から。
 M君登場。「おはようございます。初日からすみません」と言いながら、息を弾ませてテーブルに着きました。
 今日は初日なので、ミニセレモニーをしましょう。ケーキも用意してありますよ。では最初に私から少し話させていただきます。と言って、M君の前に立ち話し始めました。その後の流れは次のようでした。
 
(私) M君がタオに来るようになったのは、確か小学校の3 年生の終わり頃。8才だったと思います。
(M君)「そう、3年生の始め、学校に行かなくなって、家で『ひまだ~!』ってわめいていた」
(私) 当初は教室名「らくだの家」というフリースクールでした。M君は「鉛筆を見るのも持つのも嫌」と言って、T君と楽しそうに遊んでいました。ほとんど毎日笑い転げていたように思います。
 今M君は18才だから、10年以上の付き合いになります。らくだプリントでの学習は、まずお母さんが始め、2年目頃から少しずつやるようになりました。最初は1日に1行やるのが精一杯でした。本気で取り組むようになったのは、中学生になった頃からだったと思います。それ以来ずっと継続してやってきて、今は、足し算、引き算、掛け算、割り算は完璧にできるようになって、分数に入っています。漢字プリントも徐々にやるようになり、大分書けるようになってきています。また、これまでにお習字を書いたり、インタビューワークも何回かやってきました。私は、これだけ基礎ができていれば、さらに基礎学力を徹底させながらですが、M君は通信制高校の単位取得は十分に可能だと思っています。
 さて、これから高校生として学んでいくわけですが、ここで今一度、何のために学ぶのか、どうして勉強がしたいのか、確認しておきたいと思います。少し時間をとりますので、今の自分の考えをお互いに書いてみたいと思いますがいいですか?うまく書こうとしなくていいから。

(M君)はい、いいですよ・・・書きました。読みますよ。「楽しくいきるため」だと思います。
(私)なるほど。確かにそうだと思う。じゃ、なぜ学ぶと楽しく生きられると思うのかもうちょっと書いて。
(M君)はい。・・・「学んで色々なことの意味が分かるようになると、分からないよりは楽しくなるはず」
(私)ほんと、そのとおりだと思う。そんな風に書けるのはすばらしいな。私は、「豊かに生きるため。人間として生まれた自分の質を高めるため」と書きました。M君の言っていることと同じだと思います。学ぶとは、自分の世界を広げ深めていくことなのでしょうね。それは年齢に関わらず、とても楽しいことで、終わりの無い楽しみだと思います。私は、もうじき還暦を迎えますが、まだまだ知りたいこと、できるようになりたいことが沢山あります。これからもM君と一緒にいろいろ学んでいきたいと思っていますので、どうぞよろしくお願いいたします。
 「機が熟す」という言葉があります。「あることをする準備が整う」という意味ですが、M君は「学びの機が熟した」のだと思います。楽しく学んでいきましょう。
(M君)はい。こちらこそよろしくお願いいたします。
  ―お互いに固い握手を交わす。―
 
(私) じゃ、紅茶とケーキでささやかなお祝いをしましょう。・・・
(M君)おれ、タオがなかったら今頃どうなっていたかと思う。T君ともタオがあってよかったと言い合っています。
(私)そんな風に言ってくれる人が1人でも2人でもいるのは、学校という檻を飛び出して、自分の信念に沿った道を歩いてきた私にとっては最高にうれしいこと。ありがとう・・・。・・・M君、私、ショパンの曲を一曲プレゼントします。ピアノはいつも私の壁であり、壁を越える苦しみと喜びをもらっています。聞き苦しいところがあるかもしれないけど、食べながらきいてね。
 ―少々緊張して、ピアノに向かいノクタ-ンOp.9-2を演奏する―
(M君)・・・いい曲ですね。まるでCDを聴いているみたいでした。ありがとうございます。 


 それからお弁当を食べて、らくだプリント算数2枚、国語、英語を1枚ずつやり、「学ぼう算数」というテキストを学習して、2時頃終了としました。
 帰りがけに書いたM君の今日の感想には「本腰を上げるときが来た。今日は分数の理解が深まった」と書いてありました。うれしくて、私も「本腰を入れよう」と思いました。

  

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2009.04.17  さくら国際高等学校通信制入学式

 4月16日、学びのもりタオ高等部新入生の増渕君と共に、提携校のさくら国際高等学校通信制の入学式に行ってきました。サポート校はサポート校独自に入学式をやっているとのことでしたが、私は、彼に自分が「高校に入学したんだ」ということを実感して欲しいと思い、「行ってみようか」と声を掛け、実現しました。今後学習を進めていく上でも、自分の高校が、どのような場所にあるどんな学校か目で見ておくことは何かとプラスになるのではないかとも思いました。

 上田発3:07の別所線のワンマン電車に乗り,明るい日差しを浴びながら、菜の花や桜ののどかな田園風景を見ながらとことこと進みました。20分ほどで、「舞田」駅に着きましたが、山に囲まれた田園の中に白い柵のホームらしきものがあるだけで建物は何もありません。二人して「ここが駅なんだ!?」と言いながら降りました。さくら国際の職員の方が迎えに来てくださっていて、ほんの5~6分で学校に着きました。

 心安らぐ木造校舎で、午後2時、通信制の入学式が始まりました。入学式参加者は4名。入学承認の呼名の後、学校長と学園長のお話がありました。

  校長の清川輝基氏は、この3月に卒業した女生徒S子さんの作文を紹介してくださいました。「S子さんは、小学校中学校と不登校で、自分の部屋が学校だった。ずっと一人ぼっちの学校だった。そして、卒業証書なんてただの紙だと思っていた。しかし、3年前に勇気を出して、自分の部屋だけの世界から飛び出した。そして、先生方や他の生徒との交わりを持ちながら学び、単位を取得し、晴れて高校卒業の時を迎えた。手にした卒業証書はただの紙などではなく、自分の人生に希望を与えてくれる貴重な証書だった。卒業証書というものがこんなにも重いものだとを初めて知った。そして、3年間の学習を通して、人は他の人と関わりを持ちながら、学び豊かになっていくんだと実感した」・・・このような内容でした。

  学園長の荒井裕司氏は、まず、「さくら国際高等学校」と命名した由来を話してくださいました。さくらは日本の花の代表。冬が去り、明るい春に見事に花開く「さくら」、生徒たちの未来もそうであって欲しいという願いをこめた。もう一つ、「約束は守る、礼節を守る、自己の心身を磨く、相手を思いやる・・・」等、10箇条を挙げながら、日本ならではの「さくら」に武士道精神を大事にしたいという思いも込めたとも話されました。 

 また、3月の卒業式においでくださった、日野原重明氏の言葉を紹介されました。日野原氏は1911年生まれで、現在97才。聖路加国際病院理事長として現役で働きながら、公演や執筆活動にお忙しい毎日を過ごされている。「私の年齢を考えれば、皆さんはほんのスタート地点にたったに過ぎない。これからいくらでも学びやりたいことができる。この私にもまだどうしてもやりたいことがある。それをやるためには、120才までは生きなければならない」と笑顔で話されていたということでした。

 その後、スタッフの方々一人ひとりと握手を交わし、記念写真を撮って、入学式は終了となりました。 私自身も希望を与えられた、心温まる入学式でした。

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2009.04.14   月日の流れは夢のごとし

花見がてら、最初に赴任した茂木町の河又小学校の跡地に行ってみた。

校庭だったところには広い道路が走り、一角に「あじ彩」という小さな交流館が建てられていた。赤い屋根の平屋の木造校舎の面影は全く無かった。よく子どもたちと駆け上った校庭南にあった小山は当時の姿を残していた。懐かしさと寂しさで胸いっぱいになりながら、その小山の方に歩いていくと、エプロン姿の女性が笹の葉を採っていた。「こんにちは」と声を掛けると、なんとこの学校で一緒に勤めた河又律子さんだった。

当時学校は「僻地校」に認定されていて複式学級だった。新卒の私は3.4年、河又さんは1.2年生の担任だった。穏やかな方で、親切にいろいろ教えていただいた。

「あじ彩」では、予約をすると、土地の山菜を使った料理を食べさせてもらえるとのこと。河又さんは8年前に退職し、今は地域の方と一緒に「あじ彩」を運営しているということだった。話しながら、校庭南の小山は「喜学園」と名づけられていたことを思い出した。

河又さんに別れを告げてから、小山に登ってみた。当時は地域のPTAの方々の奉仕で、手入れが行き届き、きれいな山だったが、木々の枝が伸び放題に伸び荒れていた。頂上で寝そべって、しばし松や桜の枝を透かして乳白色の空を見つめていた。3.4年生合わせて12人。私は23才。24の瞳と共に過ごした躍動感あふれる日々が蘇ってきた。あれから36年の月日が流れたのだ。

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2009.04.01  私の近況 2009.3.29

最近のうれしいことは、ホームページができたことです。

ホームページのリニューアル作成は、株式会社デザインの加藤功一さんから電話をいただいたのがきっかけでした。3年前に株式会社ネクサスにお願いしてホームページを作成していただいたのですが、作りっぱなしで後のフォローが全く無く、ホームページは硬直状態が続いていました。インターネット関係に疎い私は、誰かに助けて欲しいという思いでいっぱいでした。

加藤さんは私の思いをよく聞いてくださり、「私たちは、まずお客様に納得していただける仕事をするということが大前提で、会社の上場などは考えていない」というお話でした。

私は「釣った魚には餌をやらない」会社にはこりごりしているので、数を追い成果主義の会社、大きい会社は嫌だと思っていました。こちらの思いが遠慮なく言え、相談できる関係が持てる会社、最初だけでなく親身になって寄り添い援助してくれる会社ならもう一度考えてみようと思いました。私は加藤さんを信じお願いすることにしました。

契約が済むと、1月22日だったでしょうか、製作担当の方と一緒に来てくださいました。笠木真由美さんという何年か経験を積まれた方で、私に対するインタビューも的確で、信頼できそうな方という印象をもつことができました。笠木さんは「長いお付き合いになると思いますので、何でも気になることはおっしゃってくださいね。よろしくお願いします」という言葉を残して帰られました。

それから、笠木さんと何度となくやり取りをして、相談に乗っていただいただきながら、ようやく完成にこぎ着けました。そして、これからもサポートを受けながらホームページを維持更新していくのです。私はこのホームページを通して、「基礎学力をしっかり身につけたい」と思われている方に、「らくだメソッド」や「学びのもりタオ」が伝わることを心から願っています。

「インターネットのことがよくわからない。でも今の状態を何とかしたい。誰かに助けて欲しい」という思いの私と笠木さんとの関係は、「勉強ができるようになりたい、でもどこからどのようにやっていったらいいかわからない。誰かに助けて欲しい」という方と私の関係と同じだと思います。そこには言葉のやり取りがあり、相手の思いに耳を傾け、人と人との信頼関係が育まれる必要があります。「働く(仕事)」とは「はたを楽にすること」つまり相手に「その人に出会えてよかった」と思ってもらえるものを提供し、そのことに対する対価を得ることだと思います。

加藤さんや笠木さんに出会ったことで、これからも「働いて」いこうという思いを強くしています。ありがとうございます。

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